2013年05月15日

[日米の相違・成績評価] 同じ答えを求める日本に対し学生一人ひとりの思考プロセスを評価する米国の先生 

東大式とは異なる米国流の中間テスト:

アメリカの大学というと、ハーバードなどのアイビーリーグばかり注目されるが、ほかにも一流校は多い。その代表格がリベラルアーツカレッジだ。知識詰め込み式ではない、考える力を養う教養教育により、多くのエリートを輩出している。トップリベラルアーツカレッジではどのような授業が展開されているのか。東大をやめ、全米No.1のリベラルアーツカレッジに入学した著者が、現地からレポートする。

■ 東大との評価方法の違い

 大学がどんな教育に重きをおいているのかということを考えるうえで、評価制度はひとつの指標になると思います。たとえば東京大学では、語学の授業は出席点30%+試験の成績70%、その他の授業は期末試験の成績のみが評価対象でした。試験では授業で扱ったことを正しく理解できているかどうかを問う記述問題がメインでした。このことからも、東京大学の(少なくとも1年次の授業では)授業内容の理解を目標としていることがわかります。

 一方、ウィリアムズでは、文科系の授業は、出席点30%、ペーパー60%、試験10%くらいの比率が中心です。試験がない授業も多くあります。出席点は、ただ授業に顔を出せばいいわけではなく、授業中のディスカッションにどれだけ貢献したかが問われます。発言の回数だけではなく、授業のディスカッションを進める上で意味のある発言をしたか、ということが評価されます。

 また、文科系であれば、ペーパーはどの授業でも少なくとも学期中に20ページは課されます。さらに、チュートリアルという生徒2人、教授1人の授業では、60ページは書くことになります。このことからも、ウィリアムズでは、授業内容の理解を基に、自分が何を考えたかについて、論理的に説明できる力を育むことを目指していることがわかります。

 それでは、1年生のときに履修した、数学、中国史、ダンスのクラスの中間試験やペーパーについて紹介していきます。

■ 数学なのに答えが間違っても110点

 普段の授業はのほほんと進みますが、中間試験は鬼畜でした。教授によって試験の形式は違いますが、この試験は記述式大問10問90分、115点満点です。数式だけ書けばいいかな、なんて思っていたのですが、かなり説明問題が多く、結局、英語ばかり書くことになりました。

 個人的な感想としては、今まで受けた試験の中でも最悪の出来で、家族に「おわた。きゃー (^o^)/」なんてメールまで送っていたのですが、フタを開けてみれば120点満点中110点でした。これが日本の学校の採点方式だったら、50点がついたはずです。答えが間違っている問題も、考え方が合っていたら9割は点数をくれるという採点でした。

 しかしながら平均点は70点でした。どうやら、アメリカの学生は、記述式の試験に慣れていないようです。実際、「今まで記述式の問題なんて解いたこともない」と言っていた人もいました。授業では、教授と生徒の双方向の関係が築けているのはいいのですが、教授の単発的な質問にいかに素早く答えるかに必死になってしまい、知識の統合ができていないように感じました。

 つまり、解説を見ればどのステップも理解できているが、自分でゼロから問題を解くことができないという状態です。その点、日本の中学、高校の数学の授業で要求される記述式の試験はよいものだと思いますし、だからこそ日本人は数学ができると言われるのかもしれません。

 ただ、私が取っている数学の授業は、数学が苦手な人が集まっている授業なので、もっとレベルの高い授業を取っている人はまったく違うでしょう。もちろん、アメリカ人は、とか、日本人はとか、一般化して話すことはできませんので、一日本人が一部のアメリカ人グループに感じたこととして受け取っていただければ幸いです。
.
■ オリジナリティを求められる課題テスト

 では、具体的に授業の課題と試験内容について説明してみましょう。

 一つ目は、「Chinese Culture: Conflicts and Continuities」という中国文化についての授業です。

 中間は試験ではなく7ページのペーパーでした。課題は、「それまでに授業で扱ったテーマを基に、中国の時事問題を分析しなさい」というものでした。私は、中国の教育と試験の関連を、孔子の時代から現代にわたって、「儒教道徳」「知識」「創造力」の3つの価値に分けて、歴史的流れの中でどのように現代の中国の大学入試の試験制度はとらえられるか、ということについて書きました。

 参考までに、成績と先生のコメントを公開します。

評価:B+
A decent effort here. Your summary of these transitions between different stages in learning is interesting, and I like the way you break it into these different categories. At the same time, are these stages really separate?  Confucius wouldn’t have completely separated morality and knowledge (as one had to know how to be moral, and much of that knowledge was located in texts). Likewise, the exam system did create a certain type of morality. 1) There was the notion that if one learned these texts one would embody their ideas and 2) the discipline to master all this knowledge was morally significant as well. Whether is worked out this way is a different question. One larger criticism is that there’s too much summary here. I would have liked to see more focus on your most original idea, namely the transition to a focus on creativity. Do you see any evidence of this happening?  Or are there just complaints that it hasn’t happened. What would this new exam look like?  The SAT may test a certain type of aptitude, but it certainly doesn’t test (or reward) creativity. So, this is a solid paper but there’s also room for more of your own creative thought here.

 読まずにスクロールしたくなるほどの長さのコメントです。日本では、試験は出しっ放しで返ってくることはありませんでしたが、50人分のペーパーにこれだけ細かいコメントを書いていることからも、いかに教授が私たちの教育に熱意を注いでくださっているか、がわかります。

 教授のコメントを要約すると、「よく頑張りました。テーマはまあまあ面白いけど、自分の道を突き進んじゃって事実を無視しちゃいましたね。さらに言わせてもらうと、要約部分が多くて君がどう考えたのかがよく見えないよ。まあ次、頑張れや、ほいB+」みたいな感じです。成績の分布ではちょうどクラスの真ん中でした。

 教授のコメントにもあるとおり、私はついついリーディングの要約に近い文章を書いてしまいがちです。日本の大学受験での、問題文や自分の知識を基に、いかにそれを簡潔明快に要約できるか、ということを訓練したときの名残なのではないか、と自分の中で言い訳をしています。

 日本の大学受験では、どの問題にも「模範解答」があったと思いますが、こちらの大学では、「模範解答」を書いたらアウトです。ただの要約には評価が与えられないどころか、盗作扱いされます。アカデミアの役割は、それまでに誰かが言ったことをもう一度繰り返すことではなく、誰もまだ言っていないことを、それまでの知見でサポートしながら、論理正しく人に説明できるようになることだからだと思います。

■ ダンスのクラスにもペーパー試験が

 続いて、「Dance100」というダンスの授業について紹介しましょう。

 「ダンスの授業なんて取って、ペーパーから逃げているな」と思う方もいるかもしれませんが、実はそんなことはありません。ダンスの授業も5〜6ページのペーパーを2回書かなくてはなりません。

 ただ、ペーパーの質問が漠然としていて何を書けばいいのかがよくわかりません。初回のペーパーの質問は「Ping ChongのモダンダンスとBalanchineのバレエの鑑賞から、授業/リーディングで習ったことを基にペーパーを書け」というもので、もうどうしたものかと思いました。「とりあえず食材は与えてやったから、あとは自由に料理をしたまえ。どんな料理でも構わないがおいしいのを期待してるぜ」という感じの自由さ、適当さでした。

 歴史のペーパーと違うのは、歴史は文献分析(text analysis)であるのに対して、ダンスは視覚分析(visual analysis)だということです。文献分析と比べて視覚分析が難しいのは、視覚分析は対象を一度しか見ることができないことと、自分が見たことを、自分の言葉で、それを見たことがない人にもわかるように説明しなければならないことだと思います。

 視覚分析などやったことないから書けない、と初めは不安に思っていましたが、授業中のディスカッションでほかの人がどのようなところに目をつけているのか、リーディングでそれぞれのダンスの歴史的な文脈やテクニックを習っていたおかげで、いざパフォーマンスを見るときには、自分の中でいくつかポイントを意識して観ることができました。どのペーパーにも言えますが、一番時間がかかるのはトピック決めです。

 私は、ダンサーと観衆の両方に対して、2人のchoreographer(辞書を引いたら『振り付け師』と出たのですが、ちょっと違ったニュアンスな気がしなくもないです)がまったく違った方向の仕掛けをすることを通して、どのようにphysical/metaphysicalの境界に挑戦しているのか? それはどんな意味があるのか? ということについて書きました。

 では教授からのやや短いアドバイスをどうぞ。

評価: A
Comment: Your paper was a good comparison of the choreographic approach of used by Balanchine and Ping Chong. We do recommend that you attend the writing so that your sentence structure and use of vocabulary allows your ideas to be communicated more directly.

 やっぱり歴史の先生と比べるとコメント少ない……しかも後半はライティングワークショップ行けよっていう提案だけです。私のような生意気な学生のために、教授はクラス全員にオフィスアワーを設けていますが、このとき言われたのは、とにかく冗漫だということです。テーマはよいからもっと簡潔に書くように、ということでした。

 クラスの大半がBかCをもらったとのことなので、英語力よりもアイデアに評価の重きを置く姿勢があるのかなあと思います。ただし、あくまでペーパーに現れた私のアイデアが評価されたということです。つまり、私自身が創造力にあふれている必要は(成績上は)必ずしもないのです。逆にどんな創造力があっても、それがペーパーに書けなければ(成績上は)意味がありません。

■ 終わりに

 色々と紹介しましたが、日本の大学とは評価方法が全く違うこと、また、教授が学生の教育に熱心であることが分かっていただけたと思います。ペーパーやディスカッションなどでは、今までとは全く違う頭の使い方を要求されるので、戸惑うことも多かったのですが、教授や友達のサポートのおかげで、少しずつ慣れてきました。

 アメリカの大学の宿題は、自分で考える機会、自分が考えていることを人に説明する機会を与えてくれる点で、素晴らしいと思います(宿題がでなければ、モダンダンスとバレエの比較、それが意味するものなんて考えることはなかったと思います)。

 与えられた質問に答えるだけではなく、自分で問題意識を持つことで質問を考え、それに自分なりの答えを出し、人に説明する、という(1)読む/見る (2)質問を生み出す(3)考える(4)人に説明する、というプロセスがリベラルアーツ教育の根幹ではないか、と感じています。
(文)佐久間美帆 TOYO KEIZAI
posted by mapjp at 10:14| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月05日

灘校文化祭 神戸女学院大学内田樹教授にインタビュー

2013.04.22
ご近所の灘校の文化祭で東北研究のパネル発表をするということで、インタビューを受けた。なかなか白熱したインタビューで、「東北とは」という切り口でものを考えたことがあまりなかったので、新鮮だった。
インタビュアーは高校生。

―まず先生は震災当時はどこにいらっしゃったのですか。

3月11日はスキーに信州に行った帰りで、電車が止まって、直江津で足止めを食らってました。よく事情が分からなくて、夜中も余震が凄かったし。阪神大震災以来だから恐怖心を感じました。翌日電車が動いて1日遅れでこっちに帰ってきました。

―先生は阪神淡路大震災も経験なさってるわけですよね。その時と比べてみてどうですか。

何が違うかと言うと、天変地異のレベルの話じゃなく、それに対処するときの政治と社会の問題だと思います。今回の対応の悪さって、桁外れなんじゃないかな。日本の社会全体としての復興に対する、支援に対する態度っていうのがひどいんじゃないですか。
阪神の時は、半年ぐらいで大体瓦礫の片もついて、日常生活は回復したわけでしょう。その時も行政の不手際にはずいぶん文句がつけられたけれど、被災した人間の実感としては、行政はそこそこよくやったんじゃないかと思います。
でも、今回は、まだ16万人ぐらいの人が家に帰れないでいる。東電からの補償もほとんどされてない。本当だったら革命が起こるくらいの怒りが住民の側にはたまっているはずなんだけど、じっと耐えてる。
その一方で、政府はTPPだとか改憲だ原発再稼働だとかいう話ばかりしている。被災地支援よりも、「まず経済成長」という話になっている。被災地は見捨てられているというのが僕の実感です。東北のことなんか、もう考えたくないというのが政府の本音なんじゃないかな。
1995年と2011年を比べると、政府と自治体の初動のまずさと、被災者に対する情の薄さが際だっていると思います。災害のスケールが違うから一律には論じられないけれど、それでもこの間に、日本の統治機構が激しく劣化したのは事実だと思います。政治家と官僚と財界人と、それとメディアですね、劣化したのは。

―具体的に例えばどんなこととかを問題に思いますか。

津波や地震の被害の復興のような物質的な手当はたとえ緩慢ではあっても、やるべきことはやってはいると思うんです。一番遅れているのは、原発事故の被災者に対するケアですね。本気で支援しているのだろうかと思う。
一番遅れているのは情報開示です。被害状況を包み隠さず開示していない。あのとき一体原発で何が起きたのか、今は何が起きつつあるのか、どんなリスクをわれわれは負っている、そのことをきちんと開示することが最優先だと思う。
第二に、なぜこんな事が起きたのかを問うこと。「想定外」では済まされません。十分な危機管理ができていなかったから、こんなことが起きた訳で、ではいったいなぜ十分な危機管理がなされなかったのか、その理由が問われなければいけない。コストの問題なのか、政策判断の問題なのか、単なる怠業や責任放棄なのか。でも、その問いも棚上げされたままです。とりあえずは追求をかわして、あれこれ言い訳して、適当にごまかして、ほとぼりが冷めるのを待とうという態度が東電も経産省もあらわです。基本的な態度が「ごまかす。ほとぼりが冷めて、メディアや国民の関心が薄れるのを待つ」ということなんです。
特に自民党政権になってからは、原発は再稼働を前提にしていますから、どうやって原発のリスクを有権者に過小評価させるかが今は政策的に優先されている。
いまも福島第一原発は危険な状態にあるわけですけれど、そのことはもう報道しないで欲しいと政府は思っている。政府も忘れるから、国民のみんなも忘れてください、って。
被曝のリスクもそうですよね。甲状腺異常などがすでに報告されているけれど、政府はこれは原発事故には関係ない、誤差の範囲であるという判断に固執している。どんなリスクを日本人が負わされているのか公開しない。
国民の健康のためには行政はある程度ナーバスになっていいと思います。国民の健康についてのリスクを過大評価したせいで失うものと、過小評価して失うものは桁が違うんですから。
でも、リスクを過剰にアナウンスすると、今度は被災地産の農産物とか水産物とか国内外で売れなくなってしまう。経済的にはたしかにダメージがあります。それでも、情報は全面的に開示すべきだと思う。
そのせいで被災地の生産物が売れなくなったのなら、その経済的な損失は一億三千万の国民で分かち合う、ということでいいと思うんです。だって、福島の農作物が売れなくなったのは、福島の農家の自己努力の不足とか、経営の失敗とかじゃなくて、原発事故という国策のせいなんだから。そして、その国策を黙って支持してきたんなら、国民全体の責任でもあるわけです。
でも、東北の被災地への復興支援は日本人全体が引き受けるべきことだという挙国一致的な支援体制ができるためには、福島で今何が起きているのかを全国民の前に明らかにしなければならない。被曝リスクがどれくらいの規模のものか、福島はどれほどの痛手を負ったのかを明らかにしなければならない。政府も東電も、それがしたくないのです。できるだけ被害を軽微なものだと思わせておきたい。そうじゃないと、原発再稼働の道筋が通りませんから。その結果、全国民的な被災地支援機運が盛り上がらない。
それどころか、アベノミクスとか言って、株価とか金融の話に話題が一気に振れて、もう震災のことも津波のことも原発事故のことも、はやく忘れたいという気分になっている。メディアでももうほとんど被災地の情報は奉じられない。そんな景気の悪い話ばかり取り上げていると売れないと思っているんでしょう。そして、どの銘柄の株を買えば濡れ手で粟の金儲けができるかとか、そういう「景気のいい話」に話題を移している。
本来であれば国を挙げてどうやって被災地を支援していくか、どうやって復興の手だてを考えるかということに集中すべき時期なのに、みんな考えたくない。問題を直視しようという意欲を日本人自身がなくしているということだと思います。安倍政権の支持率は70%ですよ。東北の問題をばっさり切り捨てている人を国民の70%が支持している。東北の復興が日本にとっての最優先のイシューであるという認識がもう国民にはないんだと思います。それよりもTPPと株価と改憲と尖閣問題とか優先してきている。

―今回の東日本大震災と阪神淡路大震災では規模が全然違うと思うのですが、だからこそ、対応が遅くなったとかいうわけでもなく、根本的にレベルが下がったということですか。

日本の統治機構のレベルは下がってます。今回、は自衛隊が際立っていました。95年も自衛隊は活動したけれど、今回は突出していた。練度が高いし、被災者救援のインターフェイスがやわらかい。多分こういうレベルの災害出動を想定した訓練を受けて来たんだろうなということがわかります。有事を想定してふだんから訓練している行政組織って、今や自衛隊とか海上保安庁とか、そういうところしかなくなってしまった。それ以外の官僚機構は、「不測の事態にどう備えるか」という訓練をしていない。ライフラインが止まる、通信や交通が途絶する、情報が来ない、そういうときに手持ちの資源だけを使って何ができるか、そういう種類のシミュレーションを官僚たちは全くしていない。総理官邸の危機管理室には電話が2回線しか通っていなかったとか、地下なので携帯の電波が届かなかったということが後から報道されましたけれど、そういう基本的なミスが起きるということは、「危機管理室を実際に使う場合」を設計した人間が想定していなかったということですよね。危機を想定していない危機管理って、何ですか。

―じゃあ逆に行政のなかではそういうことは失敗と捉えきれてないということですか。

ないと思う。災害対応って、マニュアルなしでどう最適な判断をするかってことでしょう?そういう訓練を今の日本人は誰もやっていないから。

―どうやったら鍛えられますか

だから武道やってるの(笑)。

―どういうことですか、武道の意味みたいなのって。

武道というのは、危機的状況をどうやって生き延びるか、その能力を開発するためのプログラムですから。ルールがあるところでライバルと競争するためのものじゃない。危機を生き延びる力を養っている。
だからよく「どうして合気道では試合がないんですか?」って訊かれるけど、あるわけがない。試合があるのはスポーツでしょう? アリーナがあって、レフェリーがいて、ルールがあって、時間制限があって、何月何日何分試合開始って決まっていてやるのはスポーツ。
武道というのは、いつ、どこで何が起こるかわからないという条件で、そのときに生き延びるための心と体の使い方を学ぶものなんです。

―今までの日本のどこに問題があると先生はお考えですか。

原発について言うと、戦後の原子力行政全体に問題があると思います。原子力テクノロジーって、はっきり言って、人間が完全にはコントロールすることが出来ないものなんですよ。現に、放射性の廃棄物については最終的な処理方法が確立してない。どんどん出てくる汚染物質をどう処理するか、そのテクノロジーが確立されていないうちに稼働を始めた。それがもたらす環境汚染のリスクや、廃棄物処理のコストを勘定に入れないで、「コストの安い発電機」としてと原発を導入していった。
原子力は人知を超えた、想定外のふるまいをするかもしれない危険なテクノロジーであるという覚悟を持った科学者もいたはずですけれど、その人たちの声は押しつぶされた。そして、原子力は人間が管理制御できる、安全な発電装置ですという宣伝で国民を洗脳してきたわけです。
原発がどうも危険だし、高コストのテクノロジーらしいということはときどき報道されてきましたけれど、こちらとしてももう原発が出来ちゃった以上は、「なるべく事故が起こらないで欲しい」という願望があるわけで、その願望のせいで、いきおい原発の安全性を過大評価するようになる。「安全に操業してほしい」という主観的な願望が「安全に操業されているはずだ」という客観的情勢判断と混同されてしまう。そういうすり替えが国民的規模で行われていたと思います。
非専門家は原発の現場がどういうふうになっているのかなんて知りようがない。だから、せめてフロントラインの人たちだけは原発の危険性を自覚しているべきだったと思います。仮に一般市民に対して「原発は安全ですよ」って嘘をついても、内部的には非常に危険な物を扱っていて、一度事故を起こしたら、その被害は計り知れないものになるという緊張感を維持すべきだったと思うんです。でも、その緊張感が東電にあったようにはどうしても思えない。最大限の警戒心と恐怖心を持って原発を制御しようとしていたという覚悟がさっぱり伝わってこない。たぶん、一般市民に向かって「原発は安全ですよ」と言って騙しているうちに、自分たちも自分たちがついている嘘を信じ始めたからじゃないかと思います。嘘ってそうなんですよ。あまり習慣的に嘘をついていると、言っている本人が自分の嘘を信じ始めてしまう。たぶんそうやって、事故が起こらない時間が続けば続くほど、警戒心も恐怖心も鈍化していったんだと思います。
原発も初期の人たちは強い警戒心を持って仕事をしていたはずです。だって1945年の原爆を日本人はリアルに体験したわけですから。
原子爆弾というのは、広島長崎の以前から理論的には作れることがわかっていたんだけれど、実験ができなかった。核爆発が一箇所で起きたら、それが連鎖反応を起こして、地球全体が吹っ飛ぶかもしれないというリスクがあったから。それが怖くて原爆実験できなかった。だから、マンハッタン計画が成功したときにわかったのは「どうやって原爆を作るか」じゃなくて、「核爆発しても地球は吹っ飛ばない」ということだったんです。
原子力テクノロジーって、最初からそういうものだったんですよ。実験してみたら何とかなったから、使ってみようという。そういう自転車操業みたいなものなんです。原理はなんとかわかる。やってみたら、お湯は沸かせることがわかった。でも、条件が変わるとどんなふるまいをするか分からない。とりあえずお湯は沸かせる。じゃあ、沸かして、蒸気でタービン回して、発電してみよう、と。そういうテクノロジーなわけですよ。
だから、原子力第一世代のエンジニアたちは自分たちが扱っているテクノロジーについて、「自分たちもよくわかっていない」ということはわかっていた。でも、続く第2世代、第3代目になると、「原発って、ただのコストの安い発電機じゃないか」という緩んだ気分になってきた。それなら火力や水力と同じ程度の扱いでいいんじゃないか、と。年が経つにつれて、原発に対する扱いがぞんざいになっていった。その結果、福島の事故が起きたということだと思います。

―こういうことがあった後にこれから原発政策という面ではどういう風に向き合っていけば良いんでしょうか。

今回、福島の原発事故でいったいどれぐらいの国富を失ったのかまだ試算してないですよね。国土の何分の一かが、これから向こう何百年間か居住不能になるんです。尖閣とか竹島とか言っているけど、そんなのただの岩礁でしょう? でも、福島って、そこに何十万も生活者がいて、そこを生活基盤にしていた国土なんですよ。それが原発一個で失われた。われわれは国土を失ったんです。
その被害を考えたら、原子力発電が火力発電に比べて多少発電コストが安いからと言って、そんなの桁違いじゃないですか。被災者にまともに補償しようとしたら、これまで火力との差額で原発が稼いだ分なて、全部吹っ飛んじゃう。経済的に考えても、原発はまったく間尺に合わないビジネスだったことが明らかになった。
とくに国土の喪失。これに関しては誰も何も言わない。尖閣とか竹島とかいう話になると「寸土も譲らず」とか息巻く人たちも、福島で失われた国土については何も言わない。でも、どう考えても福島で失われた国土の方が巨大な損失なわけでしょう? 
この損失は原子力行政がもたらした被害なわけですよ。愚かな原子力行政が国土喪失をもたらした。仮に今からもう一回大きな地震が福島を襲ったら、次は東京も居住不能になるかも知れない。原発再稼働派の人たちは「東京も住めなくなっても、まだ原発をやる」という覚悟があるんでしょうか。原発再稼働って、巨大地震が起きないことを前提にした「幸運頼み」のプロジェクトなんです。地震が来て、原発がつぶれた後も、「再稼働それ自体は正しい政策判断でしたが、想定外の地震のせいで事故が起きました」って言い訳が通ると思っているんでしょうか?
原発続けたいって言ってるのは、グローバル企業なんですよ。彼らは先のことは考えてないから。彼らの政策適否の判断基準は四半期なんです。3ヶ月。とりあえず四半期の収益のことだけしか考えない。
ご存じじゃないと思うけれど、株式会社の平均寿命って7年なんです。アメリカの会社は5年。長期的に会社が継続することそれ自体は、グローバル資本主義では特に重要なことだと思われていない。投資家にしてみれば、株買って高値で売り抜けることが最優先なわけで、株を買った会社があと何年生き延びるかなんてどうでもいい。理想的には、一回の株取引で、一生かかっても使い切れないくらいの個人資産を手に入れたい。企業がいつまで存続するかなんて、投資家にしてみたら、どうでもいいことなんです。
長期的に考えてみた場合、原子力発電を使うと日本の国土が汚染されて、取り返しのつかない損害をこうむるおそれがある。これは間違いない。だから、長期的にみたら「割に合わない」と考える方が合理的なんです。でも、グローバル資本主義者はそうは考えない。原発をいま再稼働すれば、今期の電力コストがこれだけ安くなる。それだけ今期の収益が出る。配当が増える。だったら、原発再稼働を要求するのが当然、というのが彼らの思考回路なんです。日本列島がどれほど汚染されようとも、個人資産が増えるなら、ぜんぜん問題ない。クオーターベースで損得を考える投資家にしてみたら、向こう三ヶ月間に巨大な地震が起きないなら、原発動かした方が利益が出るんです。だから再稼働を要求する。それは彼らにしてみたら合理的な判断なんです。反対する人間の気が知れない。投資家たちは個人資産の増減だけを気にしていて、どこかの国の国土が汚染されようと、どこかの国の人たちが故郷を失おうと、そんなことはどうでもいいんです。
僕たち日本国民は日本列島から出られない。ここで生きていくしかないと思っている。だから、国土が汚染されたら困るし、国民の健康が損なわれたら困る。でも、グローバル企業には気づかうべき国土もないし、扶養しなければいけない国民もない。誰のことも気づかわなくていい。株価のことだけ考えていればいい。
それはそれでしかたがないんです。そういう商売なんだから。でも、問題なのは、そういう人たちが国民国家の政策決定に深く関与しているということです。「国民国家なんてどうなっても構わない」と思っている人たちが、国民国家の政策を決定している。これはちょっとひどい話でしょう? 
大飯の原発再稼働のときの財界のロジック覚えてますか? 原発を動かさないと、火力だと製造コストが高くなる。だったら、もう日本を出てゆくしかない、と言ったんですよ。こんなコストの高い国ではもう製造業なんかやってられない。生産拠点を中国とかインドネシアとかに移すぞって、政府を脅しをかけた。グローバル企業にしてみたら、どこの国で操業してもいいんですよ。どこでも生きていける。どこの国にも義理なんかない。
でも、「電力コストが高い」という程度の理由で、外国に出て行くと公言している企業が、「原発事故で環境が汚染された」というときに日本にとどまると思いますか? 当然、真っ先に出てゆくでしょう。自分たちで環境汚染リスクの高いテクノロジーの稼働を要求しておきながら、いざ環境汚染が起きたら、「こんな汚いところでは操業できない」と言って出てゆく。出てゆくに決まっています。自分たちが原発再稼働を要求したんだから、原発事故が起きても、頼んだ義理がある以上、日本にとどまって操業するというようなけなげなグローバル企業があると思います?
グローバル企業には国土も国民もないんです。金儲けにしか興味がない。それは彼らの本性だから変えようがないけれど、そういうものが国民国家の重大な国策の決定に与ることに、僕は反対しているんです。

―そういう状態っていうのを改善できるんでしょうか。

できませんね。これがグローバル化ってことの実質だから。安倍自民党政権というのは「グローバル化推進政権」ですから、このあともどんどんグローバル化が進行するでしょう。守るべき国土、扶養すべき国民という概念が空洞化するだけじゃなくて、国富という概念も空洞化する。つまり、人々がいかにして国富を私財に移し替えるか夢中になるということです。どうやって自分たちの私的なビジネスを税金で支援させるか、どうやって私用のために公務員を使うか、そういうことを日本人全員が考えるようになる。

―原発の話にもどるんですが、原発って、東京で消費する電力を、福島で作ってたわけですよね。東京の犠牲になっていたわけですよね。なんでそういうシステムが生まれてしまうのでしょう。

戊辰戦争ですよ!決まってるじゃないですか。戊辰戦争で、奥羽越列藩同盟が賊軍になって、それからあと150年間、中央政府によって有形無形の差別を受けてきたからですよ。東北の出身者は中央に上がっていけなかったんですよ。政界でも官界でも財界でも・・・。明治の藩閥政治の間は、東北出身者にはエリートへのキャリアパスは存在しなかったんです。だから、原敬は爵位を拒否したんです。あれは東北人の意地なんです。私は薩長藩閥が作った政府が出す勲章なんか要らないって。原敬の号は「一山」っていうんだけど、あれは「白河以北一山百文」、東北地方は地価ただ同然という明治の東北差別に対する原の抗議のしるしなんです。
僕は、四代前が庄内藩士、三代前が会津藩士という賊軍の系譜の直系ですから、東北人の悔しさはよくわかるんです。東北人の屈託は内田家の家風ですから。「われわれは日の当たらないところに置かれている」という。東北人である限り、いくら努力しても報われないっていう。
だって考えてみてくださいよ、東海道新幹線の開通が1964年でしょ。東北新幹線の開通は2010年ですよ。半世紀遅れてる。
福島も地元が原発を誘致したわけだけれど、それは地元に産業がないからでしょう。産業がないのは福島県人の自己努力が足りないからじゃなくて、戊辰戦争以来150年間の、東北に対する政治的・経済的な制裁の結果なんですよ。東北にはチャンスが与えられなかった。
六ヶ所村ってあるでしょ。あれは昔の斗南藩の領地なんです。会津藩が戊辰で負けた後に、改封されて極寒の下北半島の原野に移された。不毛の荒地に。吹雪が吹いて、食べるものもろくに採れないところに会津藩士たちは追いやられ、そこでずいぶん餓え死にした。その斗南藩のところに今六ヶ所村の再処理施設があるわけですよ。産業が何もないところに。農作物も育たないし、自然資源もない。そこで生きていかなきゃいけない人たちがいる。だから、「よごれもの」を引き受けるという誘いに手を上げざるを得なかった。他に生きる道がないんだから。
 そういうふうに、ある種政治的な意図をもって、政府のどんな要求に対しても断ることができないくらい貧しい地域が作り出されているんですよ。そこに嫌なことを全部押し付けられるように。

―それは今の官僚であるとか政治家とかも、意識して政治を行ってるのですか。

いや、意識はしてないでしょう。むしろ無意識だからこそ、こんなひどいことができる。150年間、ずっと無意識なまま東北は抑圧されてきた。君たちも東北人の証言には耳を傾けるべきだと思う。ぜひ読んでおいて欲しい本がある。『ある明治人の記録』。旧会津藩士ではじめて陸軍大将に昇進した柴五郎の伝記。会津が明治政府にどんな目に遭わされたか、わかるよ。

―ということはそのシステム自体は、たとえば自分たちがそのシステムを認知したとしても、そうそう変わらないということですか。

だって150年かかって作り込んでいるんだから。福島とか新潟とか福井とか、原発があるのは戊辰戦争で負けた藩のところばかりでしょう。戊辰戦争で勝った側にあるのは・・・玄海が佐賀にあって、それから川内が鹿児島にある。佐賀も佐賀の乱で中央政府に反抗してるし、薩摩は西南戦争で反抗しているから。だから、長州には原発がない。今、一つだけ上関に計画だけあるけれど、地元の反対運動で結局まだできていない。調べればわかるよ。戊辰で勝った側と負けた側の原発設置比率は。歴然とした差がある。要するに、賊軍にされた地域は貧しいままにとどめおかれたということですよ。
話がそれるけれど、元老山縣有朋と田中義一が死んだときに陸軍の長州閥が実質的に解体する。そのとき長州閥の重しがとれると同時に、東北出身の、陸士陸大出の人たちが陸軍内部で急激に大きな勢力を作り出す。彼らが中心になって皇道派・統制派が形成されるんだけれど、彼らの主要な関心事は軍略じゃなくて、実は陸軍内部のポスト争いなんだよ。長州閥が独占していた軍上層部のポストが空いたので、それを狙った。
陸海軍大臣・参謀総長・軍令部長・教育総監といういわゆる「帷幄上奏権」をもつポストを抑えれば、統帥権をコントロールできる。政府より官僚よりも上に立って、日本を支配できる。そのキャリアパスが1930年代の陸軍内部に奇跡的に出現した。そこに賊軍出身の秀才軍人たちが雪崩れ込んで行った。真崎甚三郎は佐賀、相沢三郎は仙台、ポスト争いで相沢に斬殺された永田鉄山は信州、統制派の東条英機は岩手、満州事変を起こした石原莞爾は庄内、板垣征四郎は岩手。藩閥の恩恵に浴する立場になかった軍人たちが1930年代から一気に陸軍の前面に出てくる。
だから、あの戦争があそこまで暴走したのは、東北人のルサンチマンが多少は関係していたかもしれないと僕は思う。結果的に近代日本を全部壊したわけだから。ある意味で大日本帝国に対する無意識的な憎しみがないと、あそこまではいかないよ。戦争指導部は愚鈍だったと言われるけれど、僕はここまで組織的に思考停止するのは、強い心理的抑圧があったからじゃないかと思う。
一人ひとりは普通に、合理的に生きているつもりでいても、長いスパンで見ると、そういうふうにふるまわざるをえないような集団心理的な方向づけって、あるんだと思う。人形つかいに操られる人形のように動かされてしまう。
福島に原発ができ、六カ所村に再処理施設ができるのは、個別的に見ると、そのつどの政治判断とか自治体の都合とかがあって選ばれたように見えるけれど、そういう個別の選択とは違うレベルでは、もっと大きな歴史的な流れが見えてくるんじゃないかな。

―東北の人たちは第二次世界大戦の少し前に上り詰めていって、で、第二次世界大戦が起きた後、またそこで排除されたんですか。

2.26事件とか5.15事件の関係者には東北諸藩の出身者が多いでしょ。農本主義的なテロリズムには東北の怨念に通じるものがあるんじゃないかな。現に、故郷では親族が飢えているとか、身内が娼婦に売られるとか、そういうことが青年将校たちの場合はあった。だから、都市ブルジョワジーが政治を壟断するのは許せない、と。そういう怒りがあったんだと思う。青年将校たちが求めた社会資源の再分配というのは、ブルジョワジーが独占している資源を貧しい国民に還流せよという、一種社会主義的な匂いがあるわけです。日本軍国主義って、アーシーなの。地面に近いんです。だから、戦前の右翼思想って、一筋縄ではゆかない。
軍国主義者を輩出したという事実がまた、東北が戦後社会で無意識のうちに差別される理由の一つにもなったんじゃないかと僕は思う。東北の問題って、根が深いんですよ。

posted by mapjp at 21:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月21日

[対談」柳沢幸雄校長(開成中学・高校) vs 和田孫博校長(灘中学・高校)

東大で燃え尽きる学生たちとは:

今回、日本を代表する東西の名門進学校校長が、東大の秋入学や推薦入試、グローバル時代における日本のエリート教育の在り方などを語り合った。
◇◇
柳沢今しばしば、「日本にはリーダーシップを持って国際的に活躍できる人材が不足している」と言われますが、私は必ずしもそうは思いません。優れた資質を持った子どもがたくさんいます。ただ、それを育てていない。

私はハーバード大や東大などで長年、学生を指導し、2011年に母校でもある開成の校長に就任しました。そこで思ったのは、18歳の集団として世界一だということです。開成の卒業生はハーバードの新入生と比べても上だと言っていいでしょう。

どこが優れているか。まず学力、学問的な知識量です。とはいっても、開成では手取り足取りの受験指導や知識の詰め込みをするわけではない。生徒が試行錯誤しながら自分なりの勉強法を見つけて知識を深めていくのです。

もう1つは、リーダーシップをとった経験が豊富なことです。学校行事や部活動などでは、常に生徒がイニシアティブをとっていく。例えば、運動会などはほとんど生徒だけで運営されている。競技のルール改正も生徒が毎年議論して、審判も全て生徒です。いわば、立法、司法、行政を全て体験するわけです。運動会が終わると、“こいつら大人になったな”と実感しますね。だから、開成で中高6年間、ガリガリ勉強ばかりしていた生徒なんてほとんどいません。

和田それは灘も同様ですね。我が校は伝統的に自主、自律を主眼に置いた教育を行っています。校則もなければ、制服もありません。「灘校生らしく」という不文律のみです。

学力面でいえば、最近は高校生を対象にした理数系の国際オリンピックに出場する生徒が増えてきました。あくまで余裕のできた時間に好きな生徒が挑戦しているだけですが、中には世界の優秀な高校生を相手に金メダルを獲る生徒も出ています。問題内容はかなり高度で、必ずしも学校のカリキュラムに対応しているわけではないのですが、知的好奇心や思考力が学校の授業の枠を超えて育っている1つのあらわれでしょう。

柳沢興味深く思うのは、筑波大附属駒場、麻布などの伝統的な進学校の先生と話をすると、自主、自律の方針は共通していることです。やっぱり生徒が自分で何かを考えて、自分で好きなことを見つけたときが一番伸びる。

和田あるスパルタ式の進学校では、毎朝担任の先生が昨日家で何時間勉強したか書かせてコンピュータに入力して校長に報告するそうです。そうやって管理されたほうが上手くいく子もいるかもしれませんが、灘でそうした管理教育を期待されても困りますね(笑)。本来、生徒には“もっと知りたい”という学習本能が備わっています。学校側は生徒の学習意欲をうまく刺激して、好奇心を引き出していくことが重要なんです。

東大に進学すると伸び悩む

柳沢ところが、世界一だったはずの生徒が東大に進学すると一転、伸び悩んでしまうケースが多い。4年後、卒業する頃には世界一どころか日本一でもなくなるのです。それはなぜか。

私が教えた経験から言うと東大生は大きく、燃え尽きたグループ、燃えているグループ、冷めたグループの3つに分けられると思う。

まず燃え尽きたグループは、入試を突破するための洗練された指導を受けてきた学生たちです。高校時代に自分に合った勉強法を身につけないままに東大に入ったために、教授が勉強法を教えてくれない大学ではどうしていいか分からなくなってしまう。“受験偏重教育の弊害”と世間でよく言われるのは、このケースでしょう。

一方、燃えているグループは例えば、地方の公立高校から数年ぶりに東大に入ったような学生たちです。彼らは親元から離れて1人暮らしをして、高校の話題で盛り上がる連中をよそに、1人で必死に居場所を探そうとする。18歳でこれまでの生活に見切りをつけ、主体的に学ぼうとするのです。やる気が他の学生とは違います。

問題なのは、第3の冷めたグループです。首都圏の伝統的な進学校のように、手取り足取りの受験指導を受けず、課外活動にも力を入れてきた学生たちが実はここに陥りやすい。開成も当てはまります。自分なりの勉強法も身につけたけれど、これまで通りの自宅通学で、キャンパスには高校の友達がたくさんいる。高校時代の延長のような感覚で、“東大にも受かったし、そこそこ勉強すればいいや”と考えてしまうのです。しかも、もともと頭が良いから必死にならなくてもそれなりの成績は取れる。これまでの成功体験がかえって更なる飛躍を妨げてしまう。

和田名門大学の学生でも、アルバイトやサークル活動が楽しかったりして、“勉強なんかせんで済むやん”という意識の学生も多い。実際、誰かのノートをちょっと写しただけで単位が取れてそのまま卒業できてしまう。大学受験というごまかしの利かない重しが取れてしまうと、一気にモチベーションが下がってしまう。それでも安易に卒業を許す大学教育のシステムも問題だと思います。

柳沢私は、開成の卒業生には「まず親元を離れなさい」と言っているんです。高校の頃と違う環境に自分の身を置いて、自分の殻を破らないといけない。ハーバード大でも学部時代はみんな寮生活を送っていますね。そこで全米や世界各地から集まった“燃えている”学生同士が刺激し合う。学部時代から燃えているから、修士課程に進むとより一層伸びていきます。

posted by mapjp at 23:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。