2013年05月15日

[日米の相違・成績評価] 同じ答えを求める日本に対し学生一人ひとりの思考プロセスを評価する米国の先生 

東大式とは異なる米国流の中間テスト:

アメリカの大学というと、ハーバードなどのアイビーリーグばかり注目されるが、ほかにも一流校は多い。その代表格がリベラルアーツカレッジだ。知識詰め込み式ではない、考える力を養う教養教育により、多くのエリートを輩出している。トップリベラルアーツカレッジではどのような授業が展開されているのか。東大をやめ、全米No.1のリベラルアーツカレッジに入学した著者が、現地からレポートする。

■ 東大との評価方法の違い

 大学がどんな教育に重きをおいているのかということを考えるうえで、評価制度はひとつの指標になると思います。たとえば東京大学では、語学の授業は出席点30%+試験の成績70%、その他の授業は期末試験の成績のみが評価対象でした。試験では授業で扱ったことを正しく理解できているかどうかを問う記述問題がメインでした。このことからも、東京大学の(少なくとも1年次の授業では)授業内容の理解を目標としていることがわかります。

 一方、ウィリアムズでは、文科系の授業は、出席点30%、ペーパー60%、試験10%くらいの比率が中心です。試験がない授業も多くあります。出席点は、ただ授業に顔を出せばいいわけではなく、授業中のディスカッションにどれだけ貢献したかが問われます。発言の回数だけではなく、授業のディスカッションを進める上で意味のある発言をしたか、ということが評価されます。

 また、文科系であれば、ペーパーはどの授業でも少なくとも学期中に20ページは課されます。さらに、チュートリアルという生徒2人、教授1人の授業では、60ページは書くことになります。このことからも、ウィリアムズでは、授業内容の理解を基に、自分が何を考えたかについて、論理的に説明できる力を育むことを目指していることがわかります。

 それでは、1年生のときに履修した、数学、中国史、ダンスのクラスの中間試験やペーパーについて紹介していきます。

■ 数学なのに答えが間違っても110点

 普段の授業はのほほんと進みますが、中間試験は鬼畜でした。教授によって試験の形式は違いますが、この試験は記述式大問10問90分、115点満点です。数式だけ書けばいいかな、なんて思っていたのですが、かなり説明問題が多く、結局、英語ばかり書くことになりました。

 個人的な感想としては、今まで受けた試験の中でも最悪の出来で、家族に「おわた。きゃー (^o^)/」なんてメールまで送っていたのですが、フタを開けてみれば120点満点中110点でした。これが日本の学校の採点方式だったら、50点がついたはずです。答えが間違っている問題も、考え方が合っていたら9割は点数をくれるという採点でした。

 しかしながら平均点は70点でした。どうやら、アメリカの学生は、記述式の試験に慣れていないようです。実際、「今まで記述式の問題なんて解いたこともない」と言っていた人もいました。授業では、教授と生徒の双方向の関係が築けているのはいいのですが、教授の単発的な質問にいかに素早く答えるかに必死になってしまい、知識の統合ができていないように感じました。

 つまり、解説を見ればどのステップも理解できているが、自分でゼロから問題を解くことができないという状態です。その点、日本の中学、高校の数学の授業で要求される記述式の試験はよいものだと思いますし、だからこそ日本人は数学ができると言われるのかもしれません。

 ただ、私が取っている数学の授業は、数学が苦手な人が集まっている授業なので、もっとレベルの高い授業を取っている人はまったく違うでしょう。もちろん、アメリカ人は、とか、日本人はとか、一般化して話すことはできませんので、一日本人が一部のアメリカ人グループに感じたこととして受け取っていただければ幸いです。
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■ オリジナリティを求められる課題テスト

 では、具体的に授業の課題と試験内容について説明してみましょう。

 一つ目は、「Chinese Culture: Conflicts and Continuities」という中国文化についての授業です。

 中間は試験ではなく7ページのペーパーでした。課題は、「それまでに授業で扱ったテーマを基に、中国の時事問題を分析しなさい」というものでした。私は、中国の教育と試験の関連を、孔子の時代から現代にわたって、「儒教道徳」「知識」「創造力」の3つの価値に分けて、歴史的流れの中でどのように現代の中国の大学入試の試験制度はとらえられるか、ということについて書きました。

 参考までに、成績と先生のコメントを公開します。

評価:B+
A decent effort here. Your summary of these transitions between different stages in learning is interesting, and I like the way you break it into these different categories. At the same time, are these stages really separate?  Confucius wouldn’t have completely separated morality and knowledge (as one had to know how to be moral, and much of that knowledge was located in texts). Likewise, the exam system did create a certain type of morality. 1) There was the notion that if one learned these texts one would embody their ideas and 2) the discipline to master all this knowledge was morally significant as well. Whether is worked out this way is a different question. One larger criticism is that there’s too much summary here. I would have liked to see more focus on your most original idea, namely the transition to a focus on creativity. Do you see any evidence of this happening?  Or are there just complaints that it hasn’t happened. What would this new exam look like?  The SAT may test a certain type of aptitude, but it certainly doesn’t test (or reward) creativity. So, this is a solid paper but there’s also room for more of your own creative thought here.

 読まずにスクロールしたくなるほどの長さのコメントです。日本では、試験は出しっ放しで返ってくることはありませんでしたが、50人分のペーパーにこれだけ細かいコメントを書いていることからも、いかに教授が私たちの教育に熱意を注いでくださっているか、がわかります。

 教授のコメントを要約すると、「よく頑張りました。テーマはまあまあ面白いけど、自分の道を突き進んじゃって事実を無視しちゃいましたね。さらに言わせてもらうと、要約部分が多くて君がどう考えたのかがよく見えないよ。まあ次、頑張れや、ほいB+」みたいな感じです。成績の分布ではちょうどクラスの真ん中でした。

 教授のコメントにもあるとおり、私はついついリーディングの要約に近い文章を書いてしまいがちです。日本の大学受験での、問題文や自分の知識を基に、いかにそれを簡潔明快に要約できるか、ということを訓練したときの名残なのではないか、と自分の中で言い訳をしています。

 日本の大学受験では、どの問題にも「模範解答」があったと思いますが、こちらの大学では、「模範解答」を書いたらアウトです。ただの要約には評価が与えられないどころか、盗作扱いされます。アカデミアの役割は、それまでに誰かが言ったことをもう一度繰り返すことではなく、誰もまだ言っていないことを、それまでの知見でサポートしながら、論理正しく人に説明できるようになることだからだと思います。

■ ダンスのクラスにもペーパー試験が

 続いて、「Dance100」というダンスの授業について紹介しましょう。

 「ダンスの授業なんて取って、ペーパーから逃げているな」と思う方もいるかもしれませんが、実はそんなことはありません。ダンスの授業も5〜6ページのペーパーを2回書かなくてはなりません。

 ただ、ペーパーの質問が漠然としていて何を書けばいいのかがよくわかりません。初回のペーパーの質問は「Ping ChongのモダンダンスとBalanchineのバレエの鑑賞から、授業/リーディングで習ったことを基にペーパーを書け」というもので、もうどうしたものかと思いました。「とりあえず食材は与えてやったから、あとは自由に料理をしたまえ。どんな料理でも構わないがおいしいのを期待してるぜ」という感じの自由さ、適当さでした。

 歴史のペーパーと違うのは、歴史は文献分析(text analysis)であるのに対して、ダンスは視覚分析(visual analysis)だということです。文献分析と比べて視覚分析が難しいのは、視覚分析は対象を一度しか見ることができないことと、自分が見たことを、自分の言葉で、それを見たことがない人にもわかるように説明しなければならないことだと思います。

 視覚分析などやったことないから書けない、と初めは不安に思っていましたが、授業中のディスカッションでほかの人がどのようなところに目をつけているのか、リーディングでそれぞれのダンスの歴史的な文脈やテクニックを習っていたおかげで、いざパフォーマンスを見るときには、自分の中でいくつかポイントを意識して観ることができました。どのペーパーにも言えますが、一番時間がかかるのはトピック決めです。

 私は、ダンサーと観衆の両方に対して、2人のchoreographer(辞書を引いたら『振り付け師』と出たのですが、ちょっと違ったニュアンスな気がしなくもないです)がまったく違った方向の仕掛けをすることを通して、どのようにphysical/metaphysicalの境界に挑戦しているのか? それはどんな意味があるのか? ということについて書きました。

 では教授からのやや短いアドバイスをどうぞ。

評価: A
Comment: Your paper was a good comparison of the choreographic approach of used by Balanchine and Ping Chong. We do recommend that you attend the writing so that your sentence structure and use of vocabulary allows your ideas to be communicated more directly.

 やっぱり歴史の先生と比べるとコメント少ない……しかも後半はライティングワークショップ行けよっていう提案だけです。私のような生意気な学生のために、教授はクラス全員にオフィスアワーを設けていますが、このとき言われたのは、とにかく冗漫だということです。テーマはよいからもっと簡潔に書くように、ということでした。

 クラスの大半がBかCをもらったとのことなので、英語力よりもアイデアに評価の重きを置く姿勢があるのかなあと思います。ただし、あくまでペーパーに現れた私のアイデアが評価されたということです。つまり、私自身が創造力にあふれている必要は(成績上は)必ずしもないのです。逆にどんな創造力があっても、それがペーパーに書けなければ(成績上は)意味がありません。

■ 終わりに

 色々と紹介しましたが、日本の大学とは評価方法が全く違うこと、また、教授が学生の教育に熱心であることが分かっていただけたと思います。ペーパーやディスカッションなどでは、今までとは全く違う頭の使い方を要求されるので、戸惑うことも多かったのですが、教授や友達のサポートのおかげで、少しずつ慣れてきました。

 アメリカの大学の宿題は、自分で考える機会、自分が考えていることを人に説明する機会を与えてくれる点で、素晴らしいと思います(宿題がでなければ、モダンダンスとバレエの比較、それが意味するものなんて考えることはなかったと思います)。

 与えられた質問に答えるだけではなく、自分で問題意識を持つことで質問を考え、それに自分なりの答えを出し、人に説明する、という(1)読む/見る (2)質問を生み出す(3)考える(4)人に説明する、というプロセスがリベラルアーツ教育の根幹ではないか、と感じています。
(文)佐久間美帆 TOYO KEIZAI
posted by mapjp at 10:14| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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